AWT FOCUS

セクション  02

アート・オア・クラフト

日本の現代美術では、絵画や彫刻であっても、作家が制作の重点を、素材の吟味や技術の精錬においているケースが少なくない(イメージはその結果に自ずと生まれるようになっていて、そうしたプロセス自体が作品のコンセプトとなっている)。条件を限定するのを好むそうした姿勢には、クラフトマンシップが感じられる。その一方で、ここ数年の日本の工芸では、大胆な色彩や造形を試みるものが散見される。それらは実にわかりやすく「アート」らしい。このように、日本の現代美術では、美術と工芸の間にねじれが生じている。作品を前にして「美術それとも工芸?」という疑問が去来することしばしばである。

しかし、このねじれは「美術」という概念が日本に生まれた時点からあった。1868年、江戸幕府が倒れ明治政府が誕生する。新政府が近代化を目指す中で参加したのが1873年のウィーン万博であり、その過程で「Kunstgewerbe(Industrial Art)」の訳語として「美術」という言葉が新しくつくられた(Kunst部分の訳語とする説もある)。面白いのはここからで、当時の政府は「美術」を輸出産業として重視していたため、ウィーンに送られた「美術」作品には、オリエンタリズムに応える形で、技巧を凝らした工芸系の作品が多かったのである。ただ、その後日本が重工業化していくにつれて、美術は国民の精神性を育成するものとして再編成されていく。その結果、「美術」は絵画など視覚中心主義の作品に収斂していき、技術中心主義の作品や産業としてつくられたものは「工芸」と呼ばれるようになっていった。ややこしいのは、「工芸」という言葉自体はずっと以前からあった点で、本来それは、「美術」という概念が成立する以前の日本における造形全般を考えるための「マキシマムな包括概念」(佐藤道信)なのである。

興味深いのは、ここ数年の陶芸作品のアート化は、コレクターの趣味やギャラリーの戦略などマーケットからの刺激を反映しての変化と言える点だ。その構図は、かつて国家が美術(事実上は工芸)を有力な輸出産業としようとしたのと相似形を成している。やはり歴史は繰り返すのだろうか。

出典作家

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