黒田辰秋
1904–1982
ART WEEK TOKYO | NOVEMBER 2–5, 2023
セクション 01
20世紀以降のアートを考える際に重要なタームとして「抽象」、そして「物質/非物質」がある。造形美術が具体物を参照しなくなった時、その作品のうちに見える形は物質的と言えるのか。幾何学上の三角形がそうであるように、非物質的だと考えうるのではないか。そして、そのような非物質的な形によって構成された作品を通じてこそ、人は、非物質的な精神、すなわち、この世界を形づくっている目に見えないなにかに近づけるのではないか、そんなことを、20世紀以降、多くのアーティストたちが考えてきた。
しかし、見えないものは即非物質的と見なして本当にかまわないのだろうか。少なくとも日本の伝統的な美意識からすると、そこには疑問を差し挟まなければならない。たとえば、谷崎潤一郎は『陰影礼賛』の中で「諸君はこう云う『灯に照らされた闇』の色を見たことがあるか。それは夜道の闇などとは何処か違った物質であって」と述べている。
また谷崎は、闇を、英語ではJAPANとも呼ばれるところの漆と結びつける。彼によれば、「『闇』を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていゝ。(略)昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの『闇』が堆積した色」なのだ。
実際に、漆の作品では、完成までに何度も塗ることが必要である。しかも塗りと塗りの間には、表面を研いで細かい溝をつくっていく作業も必要である。漆器の色のうちに堆積しているのは、平たい層ではなくて、微細な無数の起伏を持った層なのである。それにより「『闇』が堆積した色」が生まれる。そしてその美しさは、薄明かりの中においてはじめて発揮される。そう谷崎は述べた。
興味深いことに、谷崎は、闇が見えないからこそそこに物質性を感じた。ならば逆に、見えるからこそ非物質性を感じる、そんな状況をつくることだって可能となるのではないか。そのような、ともすれば言葉遊びに聞こえるかもしれない命題を次々に打ち立てて制作したデザイナーこそ、倉俣史朗(cat. no. 2)であった。