AWT FOCUS

セクション  07

自然と人工

1930年代、梅原龍三郎や安井曾太郎が〈日本的洋画〉の確立を目指した。それは、世界の中で躍進めざましい日本を代表するという、いささかマッチョな気負いのあらわれでもあっただろう。ただし彼らの作品は、人物画や風景画など徹底して具象であった。

敗戦後、アーティストたちは、なおも〈日本〉を背負いつつ表現をするか、それとも〈世界〉という俯瞰的な視点から制作するかの岐路に立たされることになる。

たとえば鳥海青児は、畑をモチーフにして、日本的洋画を抽象に統合することを試みた(cat. no. 37)。その色彩感覚が、日本の気候風土を色濃く反映していたからか、国を出て評価を受けることは難しかったが、今日であれば、アジアにおける油彩画の成果という文脈からの再評価も可能だろう。

世界を明確に視野に入れていたのが斎藤義重だ(cat. no. 38)。戦前、つまりまだ若かった1930年代からロシア構成主義的な作品などを制作。戦後は、アンフォルメル的な絵画を経て、1950年代にはキャンバスの代わりに合板を、筆の代わりに電動ドリルを用いる作品を発表。1960年代以降は、教鞭を執る多摩美術大学で、アートの役割を、イメージをつくることから、行為と〈もの〉の関係を考察する場を生みだすことへとシフトさせる素地をつくった。そうした状況の中で展開していったのが、〈もの〉と人間の知覚との関係を追求するべく、石や土など自然にある事物を使っていった「もの派」にほかならない。

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